xtetsuji) です。
おがた (@2015年10月1日に株式会社ガイアックスへ正社員として入社して、働き始めています。
6月と7月の2ヶ月間スポットで働いていたアレは業務委託契約みたいなものでしたが、今回は正社員としてのジョインになります。その時の経緯については当該ブログ記事を参照ください。また、先立ってGaiaX Engineer’s Blog で紹介されてしまいました。写真撮られるの未だに苦手ですが、まぁなんとかといった感じです。
事実の報告と簡単な経緯は最初の方に書いていますが、後半は私の歴史的な話ですので、興味のある方だけ読んでいただければ嬉しいです。若い人の参考になるような就職活動やキャリアプランにまつわるような付随的なお話も盛り込もうと思ったのですが、書き終わりそうになかったので別途書こうと思います。
正社員入社の決め手
前のブログ記事でネタっぽく「不意打ちで事業説明が始まった」みたいなことを書きましたが、実際の採用の過程は強引なだけでなく非常に誠実なものでした。
実をいうと2ヶ月のスポット勤務は、正社員入社してもよいかどうか見極めて欲しいという「お試し期間」として、将来の社内制度としての成立も見越して私のためにわざわざ準備してもらったものでした。一度正社員採用となると、試用期間というのは名目上だけのもので、会社側は事実上辞めさせられないし、被雇用側が嫌になっても辞めづらいわけです。「うちの会社は良いところも悪いところもあるし、アクの強い会社でもあるので、会うかどうか十分検討していただければ…」といったことを @__papix__ さんから言われて、フリーランスに近い形態で2ヶ月働かさせてもらうことで、会社が自分に合うかどうかを見極める2ヶ月なのでした。
実際に入ってみると、アクが強いというよりも、自由闊達な社風が個性的な人材を伸ばす場所なんだなと感じました。もちろん、今まで経験したどんな職場よりも規模が大きい会社なので全容は全く見渡せていないですが、当たらずとも遠からずといったところでしょう。
さすがにこの業界で十数年揉まれているので多少のことじゃ驚かないですし、今のガイアックスは贔屓目で見なくてもIT企業の中で良い部類の会社環境であると思います。もちろん、人によっても配属される部署によっても合う合わないはあるわけですが、それはどんな会社組織でも同じこと。その中でも、多くのITエンジニアにとって良い環境を提供できている会社ではないでしょうか。
高望みすればキリはないですが、ガイアックスを含めて無職期間中に声をかけていただいた会社はどこも入社してみたいところばかりでした。たまたま最も強くアプローチをかけてきてくれたところに入ることになったわけですが、私もいつまでも無職というわけにもいかなかったし、迷っていたら何も決められないわけで、じゃあ最も強くアプローチをかけてくれた感じたココという感じで決めました。「自主性が無いですね」と言われれば確かにそうなのですが、会社ってどんなに事前に色々聞いても、入ってみないと実情ってわからないものですから。
特に、Perl入学式で一緒に活動している @__papix__ 校長と、帯広つながりで北海道愛を語るタケウチ君 @T_akms といった優秀な若いITエンジニアから「てつじさんと一緒に働きたい」と言われると、まだまだ老害になるわけにはいかないなと思わされますし、本当にありがたいです。
担当する業務
6月7月にスポットで働かせてもらっていたときと同じ、R&D部署のインフラチームに所属します。
R&D部署自体は、収益部門の各事業部署を横断してITエンジニアリングに関するヘルプやアドバイスをしたりする部署で、インフラチームはそのインフラ担当といった感じです。社内のITエンジニア向けのサーバサポートなどの通常業務から始まり、大量にあるオンプレサーバやクラウドサーバの保守運用や改善、そして社内ツールの保守改修などがメイン業務です。
日本有数の Perl 企業として知られているガイアックス社ですが、5月に事業説明を受けた時に提示されたプログラマーとしてのポジションは、iOS エンジニアとして Swift を書くか、インフラエンジニアとして Ruby と Go を書くかといったもの(たまたま今足りないところがそこだったっぽいです)。Perl 以外のプログラミング言語は全くと言っていいほど得意ではないということは正直に言いましたが、それでも来て欲しいという有り難いお言葉をいただいたので、IT業界に入ってから一度専業でやってみたかったインフラエンジニアを選択したのは前述のブログ記事の通りです。
Perl を書く部署もそうですが、どこの部署も人が足りないというのは多くの会社同様のようです。
結局また東京なんですか?
2015年の初めは、親族の事情で何度か東京と北海道を往復していましたが、そんな話も収束・頓挫気味になりました。かねてから体調が悪かったこともあり、2015年前半は静養と見聞などを兼ねて各地をブラブラすることになりました。
それとは別に、東京の殺人的かつ非人道的な満員電車と灼熱の気候にいよいよ耐えられなくなり、もう東京から逃げようと考えていました。無職期間中に何度か訪れた札幌や福岡や京都の環境は素晴らしく、具体的な就職先の候補として選択しようかと本気で考えていたのですが、その前に今回の話が決まったという感じです。
無職になってからボーッと考えていた理想のプランは
- 時間と場所に縛られず
- 東京を離れ
- 好きな Perl を書いて悠々と過ごせればよい
というものでしたが、それも
- 五反田本社の朝9時出社で(今はチームごとに違います)
- 未だに東京で
- プログラムを書くとしても Ruby か Go
という感じになってしまいましたが、それもまた運命なのでしょう。
苦手と言っても、Perl をしっかり理解していれば他のプログラミング言語も普通にできますし、今回の正社員入社に先立って引越し補助と家賃補助をアテに会社の至近に引っ越して日々の満員電車からも開放されたので、まだ東京で生きられるかなという気分です(引越し補助と家賃補助に感謝!)。
会社が近くなったこと、また引越しに伴い生活環境が劇的に向上したことで朝9時出勤も全く苦ではなくなったので、もう少し東京で頑張ってみようかなと思いました。
引越しについての詳細は別途お知らせします。
半月ほど正社員として働いているとメールに詳しい人として前職での経験を買われて、当初の開発者が退職してしまって詳細を知る人のいない内製のメール関連システムの改修をお願いされたり、Perl 開発案件について助言を求められたり、なんだかんだで今までの経験が直接活きています。
2020年に東京オリンピックが開催されて東京が人であふれかえるまでに、もう一度地方で働く可能性を探ってみたいなとも考えています。それまでに北海道に支社ができてくれるといいですね。タケウチ君に期待しましょう。
チームメンバーとして求められる知識を習得しながらも、平行して私の得意な Perl・メール・数学の3本柱でも力添えしていければ幸いです。
キャリアプランと地に足の着いたポジション
ある種センセーショナルな採用ではありましたが、普通に平社員です。
私の友人知人には優秀なITエンジニアが多く、年齢的にもポジションだとか報酬といった話は話題になりやすいです。しかし私はスターエンジニアのようなスキルセットもないですし、教育には興味があるけれどマネージメントには特に興味もない(似ているけれど違うものです)。安売りするつもりは全く無いですが、高額で重用される要素がそれほどあるというわけでもない、ある種平均的な30代のITエンジニアです。
お金が無ければ当然生きていけないわけですが、体を壊してしまったり、ましてや死んでしまっては意味が無い。最近はそう考えるようになりました。
「てつじさんにとって会社に求めるものは仕事のやりがいですか?やはりお賃金ですか?」と聞かれて「身の安全です」と即答するのが私です。
— OGATA Tetsuji (@xtetsuji) October 16, 2015
IT業界で十数年活動してきて振り返ってみると、交流のあるITエンジニア仲間は誰もが優秀かつ人格者で本当に何度も助けられたわけですが、その一方で「IT業界にいるのにITのことをまるで知らず、ITエンジニアをゴミのように扱う経営者や企画職や営業職」には、不本意ながら何度も殺されかけてきました。
「俺の周りはそうじゃない」「企画職や営業職にも優秀な人はたくさんいる」といったご意見は正しいですし、私もこれらの職種の優秀で尊敬できる方々を何人も知っています。これはあくまで私個人的な経験に過ぎず、一般化された事例では当然無いですし、そう信じたいです。しかしながら飲み会などでITエンジニアの方々と懇談するたび、そういう事例・そういう職種の人達は残念ながら決して珍しいものではないのかなとも感じています。
ITエンジニアリングは本当に楽しいし、世界を変えるスキルといっても過言ではないと今も信じています。一方で「運が悪い」「闇を脱する力が無い」私は、それを仕事にして無駄に疲弊するのはもう終わりにした方がいいかなと、無職期間中に真剣に考えていました。ハッキリ言えばIT業界からの引退です。
そもそもITエンジニアリングは趣味でもできますし、今やどんな業種でも必須のスキルです。身の安全が確保されるならばどんな仕事だって良いとすら考えていましたが、結果的にまたIT企業に拾っていただくことになりました。
特に今回「お試し期間」が用意されたことは入社の最大の決め手でして、2ヶ月弱の間は自分のチームや部署以上に、別の職種の方々の仕事の進め方を遠くから眺めていました。「不意打ちの面接」時に「何か質問はありませんか」とお約束の質問を頂いた時にも、他の職種の方々のことを延々と質問していたくらいです。
それでも十分に見て聞いて、ここでなら身の安全を確保しつつ仕事ができそうだと思えたので入社を決めることができました。所属するR&D部署がITエンジニアのみで構成されている部署であることを差し引いても、他の部署の企画職や営業職の方々もIT要素や対人コミュニケーションについて誠実であると映りました。本来それは当たり前であるはずだけれども、実は今の社会において意外に得難い貴重なことなのかもしれません。
インフラという職種への意気込み
私とインフラという職種との関連にピンと来ない人もいるかもしれません。「ウェブプログラマーからインフラへの転身」というたとえの的確さは、実際は半々といったところです。
最近の私はプログラマー向け勉強会などによく顔を出しているからか、ときどき「大学時代、さらにもっと前から活躍しているプログラマー」だと勘違いされることがあるのですが、全くそんなことありません。Perl を始めたのは社会人になって少し経って、ログ解析の必要に迫られて素人同然の状態から始めたものですし、現場叩き上げというのが実際のところです。コミュニティに参加し始めたのは2010年からなので、社会人生活十数年の半分にも満たない、ようやく5年目といったところです。
もともとIT業界に入ったのは、大学院時代に大学院生室にメールサーバを立てる計画があって、その担当者として私が指名された際に Linux サーバの勉強を一通り行うことになったことがキッカケでした。そう、もともとの私の本格的なITの専門知識はインフラから始まったのです。
プログラミングはというと、高校時代に BASIC を書いたり、大学時代に必修科目で C言語を書いたりしたこともありましたが、当時は何が面白いのか全くわからないままでした。専門の数学とコンピュータがリンクしていると言われることもあるのですが、研究対象は数値計算とは無縁の無限にまつわる抽象的なことばかりで、数学の研究でコンピュータを使うのは LaTeX で論文を整形することとメールでコミュニケーションを取ることくらいでした。とはいえ今、獲得したプログラミングの知識がようやく数学とリンクしつつある、そんな状況です。
そんな大学院時代でしたが、なんと私は就職活動を忘れていたのでした。もともと社会に出て働くという意識が学生時代に希薄だったこと、就職氷河期で醜悪極まりない圧迫面接の話を何度も聞くたび、就職活動なんてするものじゃないという意識が根底にあったのでしょう。大学院を卒業したあとに長引いていたバイト(これもシステム構築のバイトでした)を終わらせ、4月中旬に古巣の大学院生室に遊びに行ったら、ITエンジニアとしても優れた他学科の先輩がいたので相談をしたところ「ネットビレッジ(当時はこの社名でした)に行け」と言われたので、とりあえず行ってみたらバイトで採用されたというのが約10年いることになる1社目でした。
当時はまだウェブプログラマーという職業が明確に確立されておらず、業界をリードしているのは組み込みエンジニアから転身した人や Linux 自体やそのエコシステムを開発するエンジニアでした。大学院時代に獲得したインフラの知識で活躍していく(悪く言えば食いつなぐ)と意気込んでいた私は、その時に会社や業界をリードしていた Linux 界隈で著名な方々から早々に実質的な戦力外通告を受けて、しばらくはログ処理だったり社内でなり手がいなかった情シス的業務をすることになります。語弊を恐れずに言えば雑用係でした。ウェブ業界というものの黎明期であり、ウェブプログラマーという職業ロールやキャリアプランも当時まだ不明瞭で、教育ノウハウすらも無い時代のことです。
その後、シェルコマンドの組み合わせに限界を感じてログ処理で Perl を使う状況になったりしたあと、入社から1年ほどで、とある役員の方の力添えなどがあって Perl を使うウェブプログラマーとして独り立ちしていくことになります。
この後は Perl のウェブプログラマーとしてのキャリアを歩むことになるのですが、それでも最初に意気込んでいたインフラという職種には特別な思いがありました。プログラミングの知識を得た今の自分がインフラをやったらどうなるだろうかと。
1社目にいる間は常に会社も自分も激動の波の中にいたのですが、2013年に退職するまでの数年間は、新たに組織された安定志向の組織の中で当時新たに組織されたインフラ部署とたびたび折り合いがつかない事態が繰り広げられることになります。開発部署の平社員プログラマーである当時の私は、会社の成長のため社歴と知識を背景に諫言を繰り返していたのですが、結果は芳しいものではありませんでした。もし自分がこのインフラ側の立場だったらどうするかとは今も考えることです。インフラ部署から課された一連の縛りプレイが今日に通じるセルフブランディングと持ちネタを増やすことになったと今ではポジティブにとらえているのですが、この一連の出来事が結果的に1社目を退職する大きな要因の一つになりました。
そんなことがあってのインフラへの回帰ともいえるのが今回の転身でした。一見非合理的に見える既存のインフラ概念にも一つ一つ歴史があったりするのが普通なので、改善であったり利益であったりといった錦の御旗を安易に持ち出すことなく、相互理解を原則とした緩やかな提案や改善をしていきたいと考えています。サーバの数に対して絶対的に人が足りないR&D部署のインフラチームではありますが、幸いなことにコードによるインフラ改善であるとか、オンプレからクラウドへの移行メリットといった昨今のトレンドはチーム内で理解共有されているので、徐々によりよくしていければいいなと感じています。
私も自戒を含めて思うのは、特に若い人は成長を焦るあまり、自分も会社も急激な変化をしようとして破綻や挫折を生じさせてしまうということでしょう。「ガラケー大戦回顧録」のあとの飲み会でも、現実というゲームに投資すべきと議論したことを思い出しますが、あまりに現実に熱心になり過ぎてしまっても別の場所に犠牲を多く作ってしまって、結局最後に「こんなげーむにまじになっちゃってどうするの」って感じになっちゃうんじゃないでしょうか。要はバランスですね。
「現実は最もクソゲー」という話をしつつ、ほとんどのゲームは数年でやめちゃうから、最終的には現実というゲームに投資しておいた方が良い。 #garake_kaikoroku
— OGATA Tetsuji (@xtetsuji) June 8, 2014
ともかく、インフラ志望でIT業界に飛び込んで社会人生活をスタートしたのに思惑が外れて Perl プログラマーとしてのキャリアを積んだ自分が、長い年月を経て実際にインフラエンジニアになったらどうなるか、いただいたこの機会で存分にやってみようと思います。Perl プログラマーとして、時代毎に様々な特徴のあるインフラ担当者と関わってきた中で考えてきた様々な事を今の自分ならどうやって解決するか、新たなチャレンジが始まります。
まとめ
なんか入社というトピックの割には意気込みがそれほど無かったブログ記事でしたが、みんな平和に穏やかに、一歩一歩世の中をより良くすることが大事なのだなと、今だから感じます。
こういう心境になるのも、加齢を重ねたからなのか、荒波を越えてきたからなのでしょうか。精神年齢は未だに若いままなので戸惑うことばかりなのですが、それでも年長者として校長やタケウチ君といった若い優秀な人に一目置かれるような、そんな人を目指したいですね。
入社以外の昔話も結構書いた感じですが、引越しの事、1社目で出会った諸先輩方を含めた私のロールモデル、その他この辺りに関係することで若い人へ伝えたいお話などは、また別のブログ記事を書くことにします。
毎度長いブログ記事を書く人として一部で有名になりつつありますが、ここまで読んでいただき、ありがとうございます。2015年はまだまだ楽しんでいくつもりなので、これからもよろしくお願いします。